安部公房『砂の女』

先日友人が出ている演劇の公演を観てきた。
安部公房、『砂の女』。
評判はちょいちょい耳にするんだけど、安部公房という人の作品を読んだことはない。

安部公房というといつの時代の人だということも知らなくて、なんだかラノベのライターチックな名前だなぁと思っていたら、1993年に68歳で亡くなられているらしい。( http://ja.wikipedia.org/wiki/安部公房 )

演出上、劇場そのものがかなり熱気のこもった状態で、汗ばみドキドキしながら見ていた。見える範囲にだけでも数え切れない工夫や苦労が見えたところで、個人の集まりが舞台を開催するというのは相当大変なんだろうなと思った。なんだか思わされることの多い内容だったけど、終わったあとの役者の方々の笑顔を見てすごく元気になって帰ることができた。公演を終えた皆様本当にお疲れ様でした。

舞台の脚本というのは原作と照らしてどんな風に、どのくらい改変して作られるものなんだろうと興味を持って、ネットであらすじだけでもと読んでみた。そこで思ったこと。

安部公房 カフカ』で検索すると大量の記事が出てきたので通説も通説といったところなのかもしれないが、随分とこの『砂の女』という話はフランツ・カフカ的であった。
カフカの変身や審判といった代表作は、不条理文学と言われるものに分類されるらしいが、つまりそれのことだ。

昆虫採集に出かけた男が、砂地の穴の底にある家に宿を借りることになる。そこでは毎日砂かきをしなくては家が埋もれてしまう。砂は上にいる男たちがロープで引き上げ、穴の住人はその男たちから監視されており、食糧や水もその男たちからを通してしか調達することができない。一泊して帰ろうとしていた翌日の朝には縄梯子が外されており、男は半永久的にそこに一人で暮らす女との共同生活を強いられる。男は不合理なシステムを軽蔑しそこに閉じ込めた女を恨み、脱出を試みるものの成功することはない。
時折自棄になり配給の酒をがぶ飲みし、女に欲情し交わり、烏を捕まえる装置を作り伝書鳩の役割をさせようと酔狂なことを考えつき、次には水を砂から吸い上げる装置の作成にとりかかる。最後には脱出が可能な状況になるも、水を得る装置を完成させたことへの陶酔から元の世界に戻る気持ちをなくしてしまう。

『人間ってこんなもんでしょ?違う?ねえほらこうでしょ?』という裏側からくる本質が鑑賞者に延々と投げかけられ続ける。僕らが適応したことのない非日常の世界というのがそれを当たり前のように浮き彫りにする。狭く閉じた世界の中に流れていく人間の様が、とある基盤の中に成り立っている僕らの倫理を嘲笑う。

なんだい?この世界がそんなに滑稽かい?じゃあ君の考えているそれはなんなんだい?この男が真っ当に見えるかい?それとも滑稽に見えている?今度は浅ましいって?次は何が当たり前に見えてきた?それでじゃあ、君は一体何者なんだい?

僕は本当に文学に関して素人で、カフカだって変身を読んでなんだつまらないと思ったし、審判はドイツ語の授業で一章のみを浅く読んだだけだったんだけれど、なんとなく二者の比較を通して不条理な世界を描く人たちの一部が何を伝えようとしているのかを感じることができたような気がします。

と、また少し大袈裟に書いてしまいました。画像作成の休憩には不適切でしたねw
需要も無いだろうしもう少し簡単にこまめに書けるといいのかもしれないんだけれど、まぁ結局多分こんな感じで続けていくと思います。

見るのも読むのも書くのも、とっても面白かった。役者さん方や、こういうことに誘ってくれる友人に感謝。

新しい生活

お久しぶりです。何やらシートを広げて酔っ払って楽しそうにしている人々を眺めると、自分はいつまでもこの人たちを眺める立場なんだなぁと思って切なくなりますが、桜が綺麗ですね。お花見をする必要もないんだけど、綺麗な間にもう少し眺めておきたいなぁと思っています。柿添です。

春からのルームシェア状態で会社勤め&自社開発という環境が整いつつあります。
今は朝は起きて一斉に朝ごはん、その後朝のミーティングをして着替えて出勤。八重洲の方では研修という形で、座学と手元に支給されたノートパソコンでのプログラミング練習の繰り返し。家に帰ったらまだ中々手が回らないものの以前から作ってたアプリの開発を続け2時半くらいに就寝。6時半くらいに起きて、朝ごはん。そんな生活です。金曜の夜から日曜の昼間では休み。昨日は友達と飲んでいて、今日はゆっくり寝させてもらいました。

東京に来て思うことはいくつかありますが、とりあえず急に早起きな生活にシフトしても思ったより困ることもなく、不安は引越しでかかったお金がカードで引き落とし切れるだけの額が口座に残るのか、ということくらいです。
決して待遇の悪い会社に入ったわけではありませんが、やはり少しくらい貯金していこうと思うと気軽にお金が使える状況というわけでもないですね。当然ですが。
相変わらず不真面目で抜けている点は多いものの、これまでと比べると随分まともな暮らしをさせてもらっています。仲間のお陰ですね。


とまぁ堅めの近況報告から入ったわけですが、別の話題を。
3月に親友のいるキャンプ場で学生団体CAMPHOR-で合宿を行いまして、3日間で一人一個のアプリを作ろうということで、僕も作ったわけです。

合宿についてはうちのCEOのブログが詳しいです。
http://d.hatena.ne.jp/watambo/20120406/1333682412

まぁ要するにみんなで一生懸命クソゲーを作ったわけです。
僕が作ったのはこれ。

『もう走れよメロス』
http://itunes.apple.com/jp/app/mou-zoureyomerosu/id514262093?l=ja&ls=1&mt=8

見ての通り相当ふざけてますが、案外多くの人が遊んでくれていて、嬉しいことです。

今回はお久しぶりということで、主に近況報告を、という形になりました。
随分間があいてしまいましたが、土日にちょくちょく更新していきたいと思ってます。それではまた。

ベビーブームのリベラリズム

井上 しかし、もろバレですよ、私らあたりの“団塊の世代”は。
なんたって僕ら、学生運動とかあったでしょ。
で、ビートルズがあって……。
「なにかに熱中したことのある、気のいい世代ね」
ってところが……あるのよ(笑)。
糸井 それ、バレてるね。
井上 物事に熱中したことのある、気のいい世代……。
糸井 さらに言うと、
そのことを人に押し付けないし、
それがいいとも言わない……そういう世代。
井上 ……まずいよねぇ?
糸井 まずい。バレてる。
だから、井上さんは、そういう怒りが歌に出るんだ。
「そう簡単に、わからせまいぞ!」と。


~~~~~ほぼ日刊イトイ新聞 井上陽水・ゴールデンバッド対談 より。~~~~~












僕は団塊の世代の人というのが結構好きです。
団塊の世代とは、自由に敏感な世代。
また、『なんやかんやあって、やいのやいの言いたい世代』というのも適切だと思う。

自由の絶妙な不足。
目の前に自由をヒラヒラされながら、おめーは黙って言う通りにしてろ!って言われ続けること。
受験戦争が激化してるかと思えば大学に入れば学生運動があって、高度経済成長をみんな横並びで同じ顔して労働力として支え、景気の絶頂期はいい年したおっさんおばさんとして過ごし、子育て真っ最中にバブル崩壊
自分の目の前には訳知り顔で自由という言葉が飛び交っているにも関わらず、誰も自分を自由にしてはくれない。
そのことへの反発心のようなものが、この世代の人々にはあるのかなぁと思っています。

僕の父親はバリバリ団塊の世代で、おうみんな好きにしよーぜ?というかそうでないとおかしいんじゃねえの?
というような人です。いつでも100%そのスタンスを揺るがすことがない。
上の対談の井上陽水糸井重里の二人もそうですね。3つ前の記事に書いた村上春樹もこの世代です。
僕にはこの素晴らしく優れた人たちは、ある方向から見れば同じことを主張しているように見える。

別の立場をとる人もいたでしょうから、世代全体の総意と受け取っちゃならないんですが、ホリエモンの支持率が他世代を抑えトップだったのが団塊の世代、ときくと、やっぱりそうなんだろうなぁ、と思うのです。

それは誰かが不当に欺かれてるんじゃねえのか。誰かだけが損をしてるんじゃねえのか。本当は不自由なんじゃねえのか。
そういった反発力が彼らの原動力なんじゃないかなぁと思うのです。

僕も同じなんだなぁと思うのです。その世代の方々から見ればクソガキが何を言ってんだ、ということになるし全くもってその通りなんだけれど、要は『なんやかんやあって、やいのやいの言いたい』んです。一言めにはオマエバカヤロウふざけんな、ですよ。それは間違いやすいし、間違えば人を傷つけやすいのかもしれない。
僕は若くて学歴がいい割にはクールになれず、利を取れない方なんです。だってみんなもっとクールだもん。あ、そうなんだ?みたいな顔して、ササーッとやっちゃう。なんかわかんないけど僕にはそれは出来ないんですよね。困ったことに。
でもそういった精神性も、そこに含まれる変な甲斐性も、僕は好きですから、このままなんとかやっていこうかなぁと思っています。

というわけで今日はこのあたりで、月食を見て参ります。

起業家を海に飛び込ませる方法

豪華客船が沈没して、多くの起業家の人々が、救命ボートに乗りました
しかし定員オーバーで、何人かの人々に降りてもらわないと
沈んでしまいます
そこで、人々は
堀江貴文に対しては、
「え、もしかして飛び込まないの?」
と言いました、堀江貴文は、恐怖をこらえ海に飛び込みました
次に南場智子に対しては
「経営者とはなんですか?」
と言いました、南場智子はしばらく考えた後、海に飛び込みました
柳井正三木谷浩史に対しては
「現地調査にいきましょう」
と言いました、すると二人は、納得して海に飛び込みました
孫正義に対しては
「飛び込んでくれませんか?」
と言いました、孫正義は、『やりましょう』と言って、海に飛び込みました
家入一真に対しては、
「ここで飛び込んだら面白いよね」
と言いました、家入一真は、勇んで海に飛び込みました
田中良和に対して言おうとした時、ある一人がそれを止めました
「何故止めるのですか?」
「やめておけ、最初に飛び込んだのは私だと言って賠償を要求される」

一年。

父親から電話があった。
不動産会社から更新料を期限内に払うように連絡がきていたということだったのだが、ポロッと付け加えた一言が、「今日から北海道だ。」
そういえばもう一周忌か。

物心がついてから顔を合わせたこともほとんどなかった祖母が亡くなってから一年。
僕は多分まだ幼い子供がそうであるように、人の死が理解出来ず残された人々の様子を伺いながら、それらに対する自分の足場を探し続けている。

"村上春樹的"スタンスと社会的意義について

僕は村上春樹のファンだ。
村上春樹の文章に心酔し、それを信奉するいわゆる「ハルキスト」の一人だ。
その立場から出来るだけ素直に伝えたいことを書いてみようと思う。

『味がしない。』
僕の友人が与えた彼の文章に対する評価である。この友人は随分と熱心に村上春樹の小説に目を通しているし、その良さを分かち合う一人でもある。彼はこうも続けた。
『だからそれには、スコッチやジャズが似合う。』

村上春樹の文章は、率直な感情体験に立脚するものではない。彼の文章は論理的に組み上げられた感情と、その公平性の観点から一定の批判を行うという方法で書かれる。
彼の文章には「好むと好まざるとに関わらず」などといった表現が頻出する。
それは個々の嗜好性があり、それらは独立したものであり、公平に平等に扱われるべきものであるという主張を常に含んでいるように見える。
これらが彼の文章の持つある種の稚拙さ、文学性の欠如を指摘される一つの要因となっている。

この一つのスタンスが地下水脈のように常に流れ続ける上で、彼の創作活動の目的は時間をかけて変化していった。
彼の小説の中に登場する「僕」は、論理的に公平な感情を持つ、理想化された村上春樹である。初期の彼の作品はと言えば、その観点から描き続けられる悲喜劇でしかなかった。それはある読者からは熱烈に支持され、ある読者、特に文学という土壌を既に一つの感情活動の表現の体系として確立されているものであることを知る層から激しくバッシングを受けた。この時点で彼の作品は、ある種の公平性を望み、そうでない自分から目を背けようとする人間への癒やしという効用を持つに留まった。これが「◯◯歳で脱・村上春樹」という物言いに繋がったと僕は考えている。
その後の創作活動や取材を経て、同じスタンスを保ち続けた上で彼の文章の持つ社会的意義は大きく変化した。
それは”社会まるごと一体で公平を目指そう”という一つの立場である。
海辺のカフカ』の持つ最も大きなメッセージは、”世界はメタファーである”というものだ。責任は想像力から発生する。想像力の付随しないものは単なる記号である。逆に言えば世界は記号に想像力を付加したものの総体である、と。

そのテーマが描かれる中で、性同一性障害を持つ登場人物と、二人のフェミニストたちとの論争のシーンがある。そこで描かれるのは、図書館の手洗いが男女別でないことを差別と評し抗議する、明らかにあえて”適切でない不平等さ”を孕んだフェミニズムをまとっていると描かれる人間たちと、”中立性”のシンボルとして描かれた者との対立であり、更にその先には中立的立場の持つ怒りと、その怒りが持たざるを得ない一種の偏り、そしてその間に吹き荒ぶ冷たい風が滑らかな流れで表現される。
かつての彼の作品の中では理不尽で公平性に欠く駅員や警官、偶然遭遇した異性、あるいは降りかかった運命として描かれていたものが、題材として社会的に大きな枠組みの中で捉えられるべきものに変化していったのだ。
その結果生み出される作品は一つの強い主張を持ち始める。『僕らの敵はシステムだ』というものである。

個々の持つ不平等性と、それに反逆することの危険性はいずれも社会的なシステムに起因するものであると考える。翻って言えば、「個人のせいではない」と考える姿勢である。
確かに人間はシステムの持つ感情に振り回される。システムに沿って空虚な権利論を振りかざし、システムに沿って無駄な怒りを覚え、システムに沿って他人の価値を貶める。しかしそれは個人の持つ特性というよりはシステムの持つ特性であり、是正されるべきはシステムであると考えることもできる。
村上春樹カタルーニャ国際賞を受賞した際にスペインで原発問題に関して何かに強く怯えながらも(これも彼の特性をよく表していると思う)雄弁に語った、「これは我々日本人の倫理観の敗北である」という言葉も、そのスタンスに裏打ちされたものであると考えられる。彼がその後に続けた『我々は力強い足取りで前に進んでいく”非現実的な夢想家”でなくてはならない』という言葉に、彼の活動の持つ強固なスタンスが含まれている。

小説家とは嘘をつく職業であるという彼の言葉が、どの程度一般的に当てはまるべきものであるのかを僕ははっきりと認識していない。僕は彼の一種の”強がり的志向”の単純な愛好家であり、共感を示す者ではあるが、それを稚拙とする、正しく文学を鑑賞する人たちにとっても、一定の意義を持つべきであると信じる。なのでそういった方々も、その視点から大きな目で彼の作品を眺めてみてはくれないだろうか、と考える次第である。

Twitterとかの情報価値って。

ソーシャルメディアで情報収集をするのは、ソースが不確定で確認コストも高くつくので良くないという話をたまにきくのですが・・・・

そもそも情報収集っていうと皆さん何をしてるんですか?

例えば僕で言えば、どこぞの会社の売上高だとかM&A事情だとか起こした事件だとか、どっかにいいフリーフォントが落ちてるだとか、iPhoneアプリ業界で誰が何を作ってどういう価格でリリースしただとか、そういうことは割と知りたかったりします。

あとは友達のくだらんつぶやきとか、有名なエンジニアさんやデザイナーさんが普段何を考えてどうしてるのかとか、そういうのを見るくらいだから別に情報の制度に確約は必要無い。

もう一つ、『Twitterでこんなことが話題になっている』という情報そのものが大事だったりするという事実も外せませんよね。これはむしろTwitter上が一番生の情報だからここで取ってくるべきものだと言えます。

で、ニュースってソース付きでつぶやかれてるじゃないですか。いや仮についてなかったとして、『スティーブ・ジョブズが死んだだって!?』だけのつぶやきを信用するわけもなし。ソース元自体が誰かのブログだったりして信用ならないし、改めて調べなきゃいけないじゃないか、と言うなら、要はニュースサイトか新聞で情報収集はしなさいってことなのか?

不正確そうな情報でいいと思うんですよ。
ソーシャルメディアでの情報収集って情報の精度を一旦落とす代わりに情報の山のスソノをがっと広げてしまうのがいいのかなぁと思ってたりして。Twitter上でなんとなく気になっているだけの人が、レディ・ガガについてつぶやいている!興味なかったけどきいてみよう!とかね。会社やってる人が株についてつぶやいてるけど、株の法律ってそんな風になってるのか!?一度調べてみよう!とかね。薄く広ーくアンテナを張って、小さなとっかかりを作って、何かありそうなところに首を突っ込んでみる。それが情報収集としておかしいってこたぁないでしょ。だって自分で思いついて調べることって限られてるし。向こうから情報の種を提供してくれるのは、他にマスメディアかファーストフードの隣の席の人たちくらいしかいねーじゃん。マスメディアの情報は飽くまでマスメディアの情報だからなぁ。マクドのにーちゃんはわけわからん話しかしとらんし。と思うと、やっぱりやり方としては割と正しいんだろうなぁ、とか思ったりするわけです。


まぁフォローを20分の1くらいに削った直後に書く記事じゃないかもしれませんがwww