"村上春樹的"スタンスと社会的意義について

僕は村上春樹のファンだ。
村上春樹の文章に心酔し、それを信奉するいわゆる「ハルキスト」の一人だ。
その立場から出来るだけ素直に伝えたいことを書いてみようと思う。

『味がしない。』
僕の友人が与えた彼の文章に対する評価である。この友人は随分と熱心に村上春樹の小説に目を通しているし、その良さを分かち合う一人でもある。彼はこうも続けた。
『だからそれには、スコッチやジャズが似合う。』

村上春樹の文章は、率直な感情体験に立脚するものではない。彼の文章は論理的に組み上げられた感情と、その公平性の観点から一定の批判を行うという方法で書かれる。
彼の文章には「好むと好まざるとに関わらず」などといった表現が頻出する。
それは個々の嗜好性があり、それらは独立したものであり、公平に平等に扱われるべきものであるという主張を常に含んでいるように見える。
これらが彼の文章の持つある種の稚拙さ、文学性の欠如を指摘される一つの要因となっている。

この一つのスタンスが地下水脈のように常に流れ続ける上で、彼の創作活動の目的は時間をかけて変化していった。
彼の小説の中に登場する「僕」は、論理的に公平な感情を持つ、理想化された村上春樹である。初期の彼の作品はと言えば、その観点から描き続けられる悲喜劇でしかなかった。それはある読者からは熱烈に支持され、ある読者、特に文学という土壌を既に一つの感情活動の表現の体系として確立されているものであることを知る層から激しくバッシングを受けた。この時点で彼の作品は、ある種の公平性を望み、そうでない自分から目を背けようとする人間への癒やしという効用を持つに留まった。これが「◯◯歳で脱・村上春樹」という物言いに繋がったと僕は考えている。
その後の創作活動や取材を経て、同じスタンスを保ち続けた上で彼の文章の持つ社会的意義は大きく変化した。
それは”社会まるごと一体で公平を目指そう”という一つの立場である。
海辺のカフカ』の持つ最も大きなメッセージは、”世界はメタファーである”というものだ。責任は想像力から発生する。想像力の付随しないものは単なる記号である。逆に言えば世界は記号に想像力を付加したものの総体である、と。

そのテーマが描かれる中で、性同一性障害を持つ登場人物と、二人のフェミニストたちとの論争のシーンがある。そこで描かれるのは、図書館の手洗いが男女別でないことを差別と評し抗議する、明らかにあえて”適切でない不平等さ”を孕んだフェミニズムをまとっていると描かれる人間たちと、”中立性”のシンボルとして描かれた者との対立であり、更にその先には中立的立場の持つ怒りと、その怒りが持たざるを得ない一種の偏り、そしてその間に吹き荒ぶ冷たい風が滑らかな流れで表現される。
かつての彼の作品の中では理不尽で公平性に欠く駅員や警官、偶然遭遇した異性、あるいは降りかかった運命として描かれていたものが、題材として社会的に大きな枠組みの中で捉えられるべきものに変化していったのだ。
その結果生み出される作品は一つの強い主張を持ち始める。『僕らの敵はシステムだ』というものである。

個々の持つ不平等性と、それに反逆することの危険性はいずれも社会的なシステムに起因するものであると考える。翻って言えば、「個人のせいではない」と考える姿勢である。
確かに人間はシステムの持つ感情に振り回される。システムに沿って空虚な権利論を振りかざし、システムに沿って無駄な怒りを覚え、システムに沿って他人の価値を貶める。しかしそれは個人の持つ特性というよりはシステムの持つ特性であり、是正されるべきはシステムであると考えることもできる。
村上春樹カタルーニャ国際賞を受賞した際にスペインで原発問題に関して何かに強く怯えながらも(これも彼の特性をよく表していると思う)雄弁に語った、「これは我々日本人の倫理観の敗北である」という言葉も、そのスタンスに裏打ちされたものであると考えられる。彼がその後に続けた『我々は力強い足取りで前に進んでいく”非現実的な夢想家”でなくてはならない』という言葉に、彼の活動の持つ強固なスタンスが含まれている。

小説家とは嘘をつく職業であるという彼の言葉が、どの程度一般的に当てはまるべきものであるのかを僕ははっきりと認識していない。僕は彼の一種の”強がり的志向”の単純な愛好家であり、共感を示す者ではあるが、それを稚拙とする、正しく文学を鑑賞する人たちにとっても、一定の意義を持つべきであると信じる。なのでそういった方々も、その視点から大きな目で彼の作品を眺めてみてはくれないだろうか、と考える次第である。