抽象的雑感のメモ

人についてずっと考えてきた。
人にまつわることについて、ずいぶん沢山。

そして現時点で得た1つの結論がある。
人の行動は、人生を生き続けることへの不安から出来ているということだ。
みんな、生きるために何か行動をする。
それはとおりいっぺんの意味で言っているのではなくて、
生きたいという気持ちに対する不安があらゆる意思決定を生むのではないか、
というアプローチで僕が物事を考えることを意味する。

不安を解消することに裏打ちされた行動の連続を紡いでいくこと、
その中に、誤解なく、正確な糸を織り続けることでしか、望むような状態は作れない。
織る糸の形は少なくともこれまでの人生に規定されていて、それについて考えていくしかない。
そしてその作業は、少なくとも僕にとって他人との共同作業でしかないということを理解した。

自分と他人の織るべきものは密接に関連していて、互いの継ぎ目を慎重に正確に形成していかなければいけない。
それは、相手の人生を知るということ。相手の織ろうとしている糸の形を知ることから始まり、
どのように相手との共同作業をするか、その過程を常に考えつつ、手を止めることなく
作業をし続けていくことでしか、未来織られていくべきものを作っていくことは出来ない。
他人に誠意を尽くさなければならないというのは、つまりそういうことなのだと思う。

人間は誰しも欠けた存在であり、かつ関係性の中に放り込まれた存在である。
自分の頭で全てのことを決定付けていくしかないという事実がある一方で、
自分一人が自分一人で決めて続けていけることもまた、ある意味では1つもない。
僕らは自分の人生の不安を見つめなければいけない。それは同時に、他人の人生の不安を
見つめなければいけないことも意味する。

さて、これらの不安と、不安への対処法の中には、錯覚や誤解が存在する。
その誤解が、欲望の対象となり、その欲望が、例えば劣悪なビジネスの対象となる。
僕らは安易にその魔の手にかかってはいけない。
短期的に擬似的に不安を拭い去ることであったり、不安を拭い去ることが
出来るかのように見せかけることであったりという行為に手を染めてはいけない。
それは結局、自分自身が周囲の人と糸を織り続けていくことの生涯に渡る設計が
出来ていないということを意味するからだ。

関係が近くない相手であれば確かに影響は薄く見えるだろう。
ただし、その考えは常に自分を蝕み続ける。
他人を利することが美徳だとか、迷惑をかけるなとか、
そういったことをこの文章は意味しない。

環境、他人との相互作用を精緻に精緻に考えて、考え続けて、
その中でしか生まれてこないものを大切に育てていくのが
より良い人生であると、ただ僕個人が信じるというだけの話だ。
僕は他人が罪を犯すのを咎めたいとはあまり思わない方だ。また裁かれることも。
ただ各々が各々の居場所に従うだけで、行動の内容は変わるからだ。
ただ、その行動が自分の人生を何らかの意味で良くしようとしていた時、
そこに誤解や欺瞞やごまかしがあることだけは、避けるべきだと思っている。

平たく言えば、
『何をしてもよい。自分に嘘はつくな。』
となるのかもしれない。

僕らの人生は不安で出来ていると思う。
そして、最も強固にそれに抗う術を見つけなければならない。
最もたくましく、もっとものびやかな方法でそれを実現したい。
それが僕が自分の人生に望む現時点での一つの答えだ。