はあちゅう氏の炎上と『リア充爆発しろ』について

今回、はあちゅうこと伊藤春香さんの炎上についてですが、諸々なるほどなあと思ったので
出遅れながらも整理して考えてみました。その一部を書いてみようと思います。


設定

まず、恋愛市場における強弱を、(一旦性的マイノリティの方については別として)
『パートナーとマッチングする機会の多さ』で分けてみます。
今回の騒動を見ているとこれ自体がハラスメントを助長する序列付けだといった声が
聞こえてきそうですが、客観的なパラメータとして見つけやすさみたいなものは想定可能でしょう。
そこに人間としての勝ち負け云々といった別の観点は差し挟まれていないものであることを強調しておきます。

シンプルに上図のように、1-4に象限を分けてみたとしましょう。

まず、はあちゅう氏がどこに属するかについて、これは端的に1でしょう。
恐らく彼女を3であると主張したい層が各象限に存在すると思われますが、
単純に数で線を引くなら当然1に入る、と考えます。

さて、今回のMeToo運動の全体像は、もちろんどこからどこに向けた
ハラスメントを告発してもよいのですが、恐らく女性から男性の
ハラスメントが告発されるケースが割と多く、読者側も(心持ちとしては)
そのような想定で読んでいるように思われます。
ただ、異性へのハラスメントは恋愛市場における強弱とは関係なく、
仕事上のポジションであるとか肉体的優位性であるとか、
様々なものを背景に行われるものであり、結果的に告発は1及び3から2及び4へ、
という全方位的なベクトルで行われているものと思われます。
(もちろん4から2などのケースも実際には存在しています)


童貞いじりという行為

そして次にはあちゅう氏による『童貞いじり』と呼ばれている行為について
なのですが、これは明白に被害者が4です。
「1及び2及び3からの4へ向けたハラスメントを1に属するはあちゅうが推進している形である」
と4あるいはその権利を主張する側が糾弾しているわけです。

ちなみにこのような図が反響を呼んでいましたが、

[引用元] https://twitter.com/spartacusjp/status/942756416145711104


『ある側面においては』正しいと言えるでしょう。

このようなピラミッドを想像しやすい要因は
恋愛市場の以下の3つの特徴などによるものだと考えます。

1.女性より男性の方が複数のパートナーを持とうとする傾向にあるため、
  『経験』という意味で言えば?の象限の人が最もあぶれやすい(未経験者の実数の多さ)

2.男性から女性へのハラスメントが顕著で取り上げられやすく、その陰に隠れて
  女性から男性、男性から男性へのハラスメントが堂々と発生するシーンが相対的に
  多くなっている(未経験者のハラスメントに遭う確率の高さ1)

3.男性と女性の恋愛市場での価値決定パラメータの違いにより、女性側では未経験であることが
  有利に働くこともあるが、男性のそれについては、価値を引き下げる方向に働くことが多く、
  それをもとに中傷やマウントなどの現象が発生しやすい(未経験者のハラスメントに遭う確率の高さ2)


ポリティカルコレクトネス?

さて、問題はここから大きく発展し、『ポリコレ棒問題』とでも呼ぶべき様相を呈してきております。

めいろまさんや渡辺由佳里さんを巻き込んで大きく人権問題として扱われての
騒動と今回なっているわけですが、はあちゅう氏の童貞いじりを批判するのは
もはや言葉狩りなのではないかと。また、これは被害者いじめに当たるのではないかと
いう言説がこれまた存在します。


被害者いじめ

まず『被害者いじめ』という言説が発生する理由はこうです。
基本的にはあちゅうさんを叩いている各層は、多くが
『被害に遭った事実はかわいそうだし告発は勇気ある行為だが、それとは別に』と言っています。
これをもって被害者いじめではない、飽くまで分けて考えている、という主張です。
なるほど本人たちも本当にそう思っていそうです。

しかし、はあちゅう氏サイドからすれば、『被害に遭った人間が攻撃される構造』そのもの
に言及したい。ついでに、『批判している側の精神性にはそういう構造が根付いている』という
方法で反はあちゅう側をバッシングしたり、はあちゅう氏への慰めをなげかけたりする勢も現れます。
よっぴー氏の(後に謝罪されましたが)今は黙ってろ発言とか、はあちゅう氏のファンが
「嫉妬しているだけなので気にしない方がいいですよ」とかいった内容はこちらに当たると思われます。


言葉狩り

さて、次に言葉狩りだというのはどういうことでしょう。

今回童貞いじりに憤っている層の主張は例えば以下のようなものです。

「童貞を愛をもっていじっているのでこれはセクハラではない」
という考え方はセクハラ男の考え方と同じだ

ということです。これは世間に発生しているセクハラを、悪気なく、愛を持って行っていると思い、
また主張する、しかし相手は精神的苦痛を負っているというケースが多いことを考えると、
構造上非常に正しい主張であると言えます。
確かに受けた側が苦痛を感じていることそのものは今回についてもひとまず事実でしょう。

しかし、この論理をそのまま転用していくと何が起きるのか?

恐らく渡辺由佳里氏の主張から更に極論すれば、テレビ番組でモテ系コンテンツを出せば
「モテ至上主義の序列を作り米国のレイプ文化を助長している」ことになるかもしれないし、
テレビで芸人さんが「25まで童貞でむっちゃ死にたかったんですよ」と言えばめいろま氏の
ブログを引用して「勝ち組負け組の価値観だ!」とバッシングを受けるかもしれない。
(お二人が本当にそのように主張すると思っているわけではありません)


リア充爆発しろ』

これは興味深い状況ですね。個人的に気になっているのが例えば『リア充爆発しろ』というフレーズです。

例えば現在まさにクリスマス直前であり、TLから多くの
リア充爆発しろ』という言葉が聞こえてきたりするわけです。

ちなみにリア充爆発しろという言葉は、全ての象限の人間から1と2に向けられている言葉です。
1と2の人たちは往々にして自分は3と4に属すると主張しがちだからです。

しかしひょっとすると

『友達から聞いてTwitterを開いてリア充って言葉で検索してみたら、
 爆発しろってめちゃくちゃ沢山書かれてるんです・・・
 毎年彼女とささやかなクリスマスを楽しんでいるだけの僕のことを
 そんな風に思う人がたくさんいるなんて、これからクリスマスは安心して街を歩けません・・・』

というリア充高校生がいてもおかしくない。彼の人権は守られるべきではないでしょうか。

童貞いじりは確かにマウントの要素を含んでいますが、リア充爆発しろは脅迫の要素を含んでいるとも言える。


まとめ

しかしどうも、

・童貞いじり、と言われる行為の「全般」
・伊藤氏が嫌だと公言するタイムライン上の『おっぱい』
リア充爆発しろ

のどれもが撲滅されるべきだというのは、それはそれで中々に思想統制の雰囲気を
帯びてしまっているような気がしてなりません。

しかし各々の人権は守られなければならない。どんな人の気持ちも安易に脅かされてよいものではない。
それを守るためのルールや共通認識というのはどのようなものか、非常に難しいところであります。

え、『結局お前自身の意見はなんなんだよ』って?

僕の意見は・・・・




















『いやお前ら仲良くせえよ』

以上。







目指しているのが糾弾のところまでではなくその先の
「反省する人は反省して多様な人が仲良く生きられる社会」
だとすれば、糾弾にもまた、どこかには思いやりが必要だと考えるからです。

ま、それぞれの私怨があるわけで、そんな簡単にいきゃ苦労しないんすけどね。

長文失礼致しました。

IT業界の運動習慣ェ・・・

この記事は CAMPHOR- Advent Calendar 2015 の13日目の記事です。

こんにちは。@Y_Kakizoeです。
はるか昔にCAMPHOR-を立ち上げた非エンジニアおじさんです。
リクルートキャリアという会社で企画・開発業務をしつつ、Vi-Kingという会社の経営(COO)・戦略担当的なことをやってます。

突然なんですが私、二年くらい前からアマチュア格闘家をやってまして、
忙しくて行けない時期を除き、週四〜五くらいのペースで練習に通っています。
プロとスパーリングもしますし、試合にも出てるし、そのための減量もします。
なんだコイツって感じだと思うのですが、そんな私がIT業界にいて思うことの一つが、

『お前らちょっとは運動しろ』

なんですね。
一日に5分でも10分でも運動をすることが合理的に人生にプラスである、と思いながらやってない人の数が、
これはもう半端ではないわけです。超頭のいい人たちが集まって凄い仕事をしているのに、こと運動に関して
こぞって非合理という、のっぴきならぬ異常事態なわけです。CAMPHOR-のエンジニア然りです。
それで、大人になってから具体的に運動をしてないものだから、ITに関してはめっちゃ勉強家なのに
スポーツに関しては全然知らないかよくわかんない古臭い知識をそのまま信じてるみたいな状態。
それは非常にまずい!嫌だ!

というわけでエンジニアコミュニティのAdvent Calendarちゃうんかい!というツッコミを全身に受けつつ、
お前らもちゃんと運動せえや!ということで、私が最近気付いたことなんかも含めて、
ちょっとずつでも運動に取り組むための鉄則を書いてみました。


1.上達を目指す

上達を目指して下さい。球技でも100M走でもダンスでもなんでもいいです。
何かについての上達を目指しましょう。

社会人が運動をする時の目的って大体以下のような感じです。

・痩せたい
・健康になりたい、肩凝り腰痛を治したい
・かっこいい筋肉をつけたい

これを直接目指してスポーツに取り組める人は別にいいです。
でも普通、ダイエットオタクと健康オタクと筋肉オタクにしかそれは出来ないです。
何故か?
『運動に対するフィードバックが遅いから』です。いきなり痩せないし、いきなり健康にならないし、
いきなり筋肉つかない。
それで運動が続かなくて、『自分は根気が無い』って、そりゃ無理でしょ!(ヾノ・∀・`)ムリムリ

正しい考え方をすれば、上達の方が遥かに速いフィードバックが得られます。
そして上達して適切な動きを身に付ければ、自然と目的に近づいていける、
あるいはそれらを達成出来る身体機能がつきます。



2.無理をしない

無理をしないで下さい。

よくあるパターンが、
『ランニングを始めたんだけど、昨日走りすぎちゃってさ〜すげー脚が痛いんだよ』
ってやつ。

いや、気持ち分かるけど、なんかちょっと満足するのやめて!走りすぎないで!

『こんなランナーにはならないで!“なんちゃってアスリート”に要注意』
でオリンピックメダリストの有森裕子氏はこのように述べています。

”これは私も実践していたことですが、トップアスリートになればなるほど、
走る前のウォーミングアップや補強運動、アフターケアを欠かしません。
例えば、1つの試合に向けて、3カ月以上の練習メニューを入念に組み立て、
段階を踏んでから厳しいトレーニングに取り組み、本番で結果が出るように調整していきます。”

無理をしてはいけないんです。オリンピック選手ですら。
いきなり脚が痛くなる距離走ってもダメなんです。ランニング以外も全く同じ。
ジムにエクササイズをしにくる人を見ていても、『ヤケに追い込むな〜』と思う人ほど、意外とすぐやめていきます。

僕は無理をしながら辞めないタイプだったんですけど、無理してるだけでイマイチ上達遅いし、
レーニング方法間違ってたなと今になってかなり後悔してます。

3.より楽な方法でやる

はい。より楽な方法でやりましょう。
あえて辛いことをやろうとする人がいます。
要は『負荷のかかることをやればよい』と思っているパターンです。
2の無理をしない、にも通ずるんですが、筋肉痛になった、息切れを沢山した、
つまり筋肉と循環器に大きく負荷をかけたからよく運動をした、と思うのは間違いです。
確かに筋肥大を起こすには筋肉への負荷は不可欠ですし、心肺機能を高めるためには、
心拍数が上がるような高負荷のトレーニングが必要です。

しかし、あなたの『稼働していない筋肉が多数ある、下手な動きしか出来ない状態』で、
一生懸命追い込むことを今単発でやったところで、大した成果が得られるわけがないんです。
(※大胸筋を肥大させることだけが目的なら、ベンチプレスをただ上げ続ければ達成できますが)

じっくり体と対話しながら、より楽な姿勢、動作を探りましょう。
適切に筋肉を動作させることを覚えると、各筋肉がほぐれ、緊張、負担が
日常生活レベルで減っていきます。これは肩凝りや腰痛の軽減に効いてきます。

もし追い込んで筋肉や循環器など生理学的な機能を向上させたいなら、
上記の方法をある程度確立してからやればよいはずです。
それなりの運動強度に耐えられる体になっているはずですから。


4.姿勢・動きの改善をする

これも3の『より楽な方法でやる』に通じていますが、楽な方法でパフォーマンスするために、
姿勢、動きの改善をトコトンやって下さい。

姿勢、動きとは、骨格の状態とその移行ですね。
骨盤の向き、位置、動き、股関節の角度、動き、肩甲骨の動き、などを最適化します。
動きというと筋肉を意識しがちですが、要は骨がしっかり筋肉で支える必要なくバランスよく
地面から頭まで立っていれば、筋肉への負荷は最小化されるわけです。
実現したい動作も安定してきます。

・まとめ

1〜4を満たすようなトレーニングが世の中には沢山あります。
または、実際にやってみながら自分で考え出すことも出来るはずです。

具体的なトレーニング方法は詳細に渡りすぎるのでここには書かないことにして、
もし何かわからないことがあればご相談などお待ちしています。
(注:CAMPHOR- はエンジニアコミュニティです)

抽象的雑感のメモ

人についてずっと考えてきた。
人にまつわることについて、ずいぶん沢山。

そして現時点で得た1つの結論がある。
人の行動は、人生を生き続けることへの不安から出来ているということだ。
みんな、生きるために何か行動をする。
それはとおりいっぺんの意味で言っているのではなくて、
生きたいという気持ちに対する不安があらゆる意思決定を生むのではないか、
というアプローチで僕が物事を考えることを意味する。

不安を解消することに裏打ちされた行動の連続を紡いでいくこと、
その中に、誤解なく、正確な糸を織り続けることでしか、望むような状態は作れない。
織る糸の形は少なくともこれまでの人生に規定されていて、それについて考えていくしかない。
そしてその作業は、少なくとも僕にとって他人との共同作業でしかないということを理解した。

自分と他人の織るべきものは密接に関連していて、互いの継ぎ目を慎重に正確に形成していかなければいけない。
それは、相手の人生を知るということ。相手の織ろうとしている糸の形を知ることから始まり、
どのように相手との共同作業をするか、その過程を常に考えつつ、手を止めることなく
作業をし続けていくことでしか、未来織られていくべきものを作っていくことは出来ない。
他人に誠意を尽くさなければならないというのは、つまりそういうことなのだと思う。

人間は誰しも欠けた存在であり、かつ関係性の中に放り込まれた存在である。
自分の頭で全てのことを決定付けていくしかないという事実がある一方で、
自分一人が自分一人で決めて続けていけることもまた、ある意味では1つもない。
僕らは自分の人生の不安を見つめなければいけない。それは同時に、他人の人生の不安を
見つめなければいけないことも意味する。

さて、これらの不安と、不安への対処法の中には、錯覚や誤解が存在する。
その誤解が、欲望の対象となり、その欲望が、例えば劣悪なビジネスの対象となる。
僕らは安易にその魔の手にかかってはいけない。
短期的に擬似的に不安を拭い去ることであったり、不安を拭い去ることが
出来るかのように見せかけることであったりという行為に手を染めてはいけない。
それは結局、自分自身が周囲の人と糸を織り続けていくことの生涯に渡る設計が
出来ていないということを意味するからだ。

関係が近くない相手であれば確かに影響は薄く見えるだろう。
ただし、その考えは常に自分を蝕み続ける。
他人を利することが美徳だとか、迷惑をかけるなとか、
そういったことをこの文章は意味しない。

環境、他人との相互作用を精緻に精緻に考えて、考え続けて、
その中でしか生まれてこないものを大切に育てていくのが
より良い人生であると、ただ僕個人が信じるというだけの話だ。
僕は他人が罪を犯すのを咎めたいとはあまり思わない方だ。また裁かれることも。
ただ各々が各々の居場所に従うだけで、行動の内容は変わるからだ。
ただ、その行動が自分の人生を何らかの意味で良くしようとしていた時、
そこに誤解や欺瞞やごまかしがあることだけは、避けるべきだと思っている。

平たく言えば、
『何をしてもよい。自分に嘘はつくな。』
となるのかもしれない。

僕らの人生は不安で出来ていると思う。
そして、最も強固にそれに抗う術を見つけなければならない。
最もたくましく、もっとものびやかな方法でそれを実現したい。
それが僕が自分の人生に望む現時点での一つの答えだ。

オリジナリティ、あるいは生き方みたいなことについて

今年の抱負をこないだ決めた。『自分探し』という、いやいや
その年で頭大丈夫なの?みたいなフレーズになっちゃってますが、
それについてちょっと細かく書くから、誰か読んでなんか言ってくれ!

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去年の6月から格闘技を始めた。
割とのめり込んで、今はアマチュア全国優勝が目標。
とはいえまだ実戦経験足りなくて、どの程度でどこまで行けるのか計れてないのが現状ではあるんだけど。
スポーツは、割と昔から好きで頑張ってきた。でもあまり得意でないとも思う。

うちのジムには、北海道から仕事で出張に来た時だけ(とはいえ月に一度以上のペースだが)
顔を出してくれる人がいて、元々プロのスパーリング相手とかをずっとしてきた人で、
なんなら軽くみんなのコーチをしてくれてる感じ。
初試合の前にも、それから後ちょっとずつ強くなっていくのにも、
ミットやらマスボクシングやら色々とすごくお世話になってる。

その人と二人で飲む機会が一回あった。
突然だったような気がするんだけど、強くなりたいですか?と訊かれた。
そりゃあなりたいっす。プロとか目指してるんですか?
いやプロとかはわかんないですけど、アマチュアで優勝したいです。
そんなやりとりの最中にふと彼は言い出した。
『一度ミットを持てば、強くなるかどうかは大体わかるんですよ。
あなたは多分、強くなります。』
すごく嬉しかった。どのくらい強くなるって言ってんのかわかんないけど、
嘘じゃなく言ってるんだなと思ったしね。
『だけど一つだけ言えることが、』
彼は続けた。
『僕が蹴りを、こうだと教えてる時に、あなたは一発一発蹴りながら、
違う、なんで出来ないんだろう?という顔をしますよね?』
はい。
『それって違うんですよ。僕はずっと格闘技をやってきて、僕の思う一つの型があって、
それについて言ってるだけなんですよ。』
なるほど確かに。
『だから、「自分の場合であればこうする」と思いながら
やっていくと良くなると思いますね。』

この一言に僕はやられた。もう本当にやられた。
あまりにもその通りすぎるし、当たり前すぎる事で、字面にしてみると、
本当に凄いこと言われたっていう実感値と合わないんだけど。

自分はこういう風な動作で生きてきて骨格はこうなってる。だからこういう選手を目指してる。
そしたら飽くまで僕が打ちたい蹴りの理想像は既にあって、でも自分よりも熟練者がまた、別の
イメージを持ってる、そんな状態。決めるのは自分でしかない。
一旦相手の言ってる蹴りをやってみて、実際取り入れるべきかどうかを考える。
自分の理想と比較して、理想像を更新するかどうかを考える。
理想に近づいた蹴りが出来た。でも相手は違うことを思ってるらしい。
どんなに強い人でもみんな教えることってほんとに全然違うから、
基本的な理論はあるけど全く違うことを言う。でもそれぞれがちゃんと利点を持ってるし、
自分にマッチするかどうかは自分で判断するしかない。
自問してみた。それ考えて練習やってる?
教えられた蹴りの形が上手く出来ないことだけで頭いっぱいになってない?

いや超なってるわ。。。

いや、前のスポーツやってた時と違って、ある程度なりたい像を考えながら練習やれてる。
やれてると思ってた。サンドバッグ叩いてる時は。
全然違う。より実戦的な状態に近づけば近づくほど意識しないといけないことで、
全体的な動きの中で、結局自分はどういう攻撃を繰り出すか、どうやってガードするか、
避けるか、コンセプトを固めて、頭使ってやってかなきゃ、才能も無い、経験もない
自分がちゃんと思うように強くなってくわけない。

結局これは格闘技もクソもなく、何についても同じだ。
どうやって仕事をするのか?どのように人付き合いをするのか?どうやって生きていくのか?
その時その時、『みんなはこうしてて、これがいいと思ってる人がいて、多くの人はこうだ。でも自分だからこうする』って
【オリジナリティ込みでのベスト】をずっと状況に応じて決め続けていかなきゃならない。
自分は友達と会社やってて、でも大企業のサラリーマンでもあって、何故か格闘技に本気になってて。
全然間違ってないなって思う。俺そういう奴だもん。
でもやっぱ時々迷う時とかってどうしてもある。あれ、なんかおかしくね?ってなる。
その時にいややっぱ俺のやり方はこうだよって、間違ってないって、言えなきゃダメだわ。
そういったこと全てをズバーンとストレートに差し込まれた感じがして、いや本人はそんな
つもりで言ったんじゃないかもしれないけど、とにかくそれ以来毎日考えてた。

自分が自分として進むべき方向。そんなものは僕のアイデンティティが、これまで
生きてきた軌跡が、ある程度のところまで決めてしまってる。
それに逆らって人の真似をすることは出来ないし、する必要がない。
そんなの当たり前だし、そうやって生きてきたつもりだった。
でも振り返ってみれば、僕は何をどうして生きていいのか、
全然わからずに目の前のことを見て、なんか目移りして、いいものはいいし、
ダサいもんはダサいし、でも俺ってどうしようってわかんなかった。
自分のオリジナリティを含めてこうなろうっていうのが全然無かった。
カッコイイやつはカッコイイな〜。俺もそんな風になりたいな〜って思ってるだけだった。

別に人生を計画しないのだって僕の性質の一つと考えて良いと思うし、
そこまで何かが厳密には決まらなくて、ちょっと行き当たりばったりでいい。
でも、例えば僕が周囲の人にどんな誠意を、僕なりに尽くしていくのか。
物事を総じてどんな風に捉えながら次の選択を、僕なりにしていくのか。
そういったことは、変えられないことでは無いはずだけど、基本的な部分はある程度決まってる。
何かあっちの方がかっこいいんじゃないかとか、なんとなく人のことも羨ましいとか、
そういうことをしてても全然ダメで。ほんと当たり前なんだけど、そんなんじゃ話にならなくて。
俺がやれることなんて、大きさは別として、方向性は大体決まってんじゃん。
いや、でもそれって最高だ。面白い。だってそれ込みで考えたら、
俺って人より面白いことするに決まってるって結論にしかならない。やった!

人と比べてこんなことに気付くのがすごく遅いのだと思う。でも色んなことに整理をつけて、そもそも自分は何者で、
自分はどうやって生きるしかなくて、今どの仕事に、あるいは趣味に、あるいは人との触れ合いに、
どんな力を割いていくのか。改めて一つ一つ定義していきたい。
それが、『自分探し』で、今年の抱負なのでした。

2014年、あけましておめでとうございます。
全力で駆け抜けます!みたいなこと言うタイプじゃないんだけど、
今年は結果的にそんな風になるのかもしれない感じがしてます。
そんな柿添をまた一年間楽しく見守っていただければと思ってます。
それでは皆様、2013年本当に色々な人にお世話になりましたが、
また迷惑とか普通にかけてくんで、2014年も、どうぞよろしくお願いします!

数学者「2×3×4とか平気で書くヤツ馬鹿なの?死ぬの?」

僕は大学院まで数学を専攻していたので、数学者について聞かれたり、
数学者について自分から話すことが時々ある。
その時、数学者とは何者かという問いに対して、僕は大体こんな答え方をする。

『2×3×4って何?と思う人たち』

意味がわからなすぎて発狂した読者に殺されかねない。意図を解説させていただきたい。

2×3×4はいくつかと聞かれたら、普通の人間ならしばらく考えて24と答える。
もちろん数学者だってなけなしの社会性を振り絞って24と答えるだろう。
ただ内心では『2×3×4?お前何言ってんのか全然わかんねーんだけど』
と思っている可能性がある。正確に言えば
『えー、実数体や整数環は掛け算に関して結合則を満たすことを前提とし、(a×b)×cと
a×(b×c)を共にa×b×cと表記することを許容するのであれば24ということになるのだが、
君の問いはそう解釈して本当によかったのかね?違えば説明していただけんかね』
ということになる。


今、数学者は頭がおかしいと思った人はこれを持って正常な思考回路をしていると認定してよい。
ここまでくると発狂しなかった読者にも殺されかねない。

でもよく考えてみてほしい。ここで問題になっているのは以下のようなことだ。

掛け算は2つの数に定義されている計算のはずだが、(2×3)×4と2×(3×4)のどちらについて
聞いているのだろう?また、いずれも等しいからあえてカッコを省略しているのだとすると、
(2×3)×4=6×4と、2×(3×4)=2×12が等しいと我々はいつ知ったのだろう?

もしこれらの値が違ったら、そもそもカッコなしで2×3×4と表記するのは
一意の答えが存在せず、間違いではないかということになる。

2×3×4という表記は『証明もしていない、メカニズムも理解していない、しかし事実である等式を、
人々が当たり前に利用している、とんでもないブラックボックスの象徴』なのだ。
そんなことはどの教育過程のどんな計算の中にも無数にあるんだけれど。

別に普通にいけば考える必要なんかどこにもないし撲殺したくなるほど面倒な人種ではあるが、
実際こういう理解をしていないと研究としての数学なんてとても出来ない。

ちなみに偉そうなことを言うと、実はa×bとb×aが等しいのも、(a×b)×cとa×(b×c)が等しいのも、
代数学に則る場合、数学的に証明するのはそんなに容易なことではないのである。

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デフォルメして書いたので、別に数学者の頭の中がずっとこうなっているというわけではない。
でもこういう考え方に代表されるような方法で思考する機会が多いし、ざっくり言うと
こんな人種である、ということだ。撲殺はしないで欲しい。

ヤマト運輸、まごころ宅急便というイノベーション / ”あの日、何度も縁側を振り返った”

孤独死を、なくしたい”
株式会社リクルートキャリアという賑やかでやかましい企業の創業祭。
その場にいささか似つかわしくないとも思われるフレーズは、
それまで威勢のいい司会で賑わっていた会場を一瞬にして静寂で包んだ。

”あの日、何度も縁側を振り返った”
ヤマト運輸株式会社の松本さんという女性ドライバーが、
一配達員としての記憶を詰め込んだ映像が流れる。

”私が、ばあちゃんを殺した。”
”いつもと様子が違った。”
”元気がなかった。”
”縁側を何度も振り返った。”
”三日後、同じ場所では家主の葬儀が行われていた。”
亡くなったのはおそらくあの日の晩だという。
最後に話をしたのは多分松本さん。
私が通報していれば。
せめてもう一声かけていれば。

あの「クロネコヤマトの宅急便」の、いかにも生々しい配達ドライバーの体験談。
何故それがこんな華々しい場で語られているのか?

ヤマト運輸株式会社、岩手主管支店・営業企画課課長の
松本さんは、社会イノベーター公志園第二回、気仙沼決勝大会の代表受賞者だ。

孤独死をなくしたい。
私達にはそれが出来るはずだと訴えかけ続けた。
当然のことではあるが、たくさんの反論が飛び交った。
”専門家がやることだ”
”そんなにやりたければNPOに行けばいいじゃないか”
そうではない、と彼女は語る。
ヤマト運輸の巨大な配送ネットワークを通じてしか、実現され得ない。
有料事業化してこそ、次の世代の人たちに受け継がれ、目まぐるしく変化していく
時代に対応していくこともできる。

『昭和という苦しい時代を支えて走った。そんな彼らが自宅で、ひっそりと、
誰にも知られることなく死んでいくことなど、この日本という国で決してあってはならないことです。』
言葉からは長年持ち続けてきた強い思いが滲み出ている。

どんな田舎でも走っているヤマトのトラック。お客様と親しく会話するたくさんの
セールスドライバー。ヤマトなら絶対できると確信した。

ヤマト運輸岩手県立大学と協力し、盛岡市内での見守り事業を実験的に運用。
その後2010年9月に、見守りと買い物代行と結びつけた、「まごころ宅急便」をスタートした。
その後しばらくは順調に運用。しかし、

他地域からも声が掛かり始めた2011年3月11日

東日本大震災が発生。岩手県は大きなダメージを受ける。
全てのネットワークはストップし、多くの人が絶望に打ちひしがれた。
その時松本さんらはヤマトの救援物資輸送協力隊に参加し、
21日には宅急便も営業を再開。

数カ月後、松本さんは岩手県社協から紹介を受け、
とりわけ大きな被害を受けた同県大槌町に入る。
震災で買い物手段を断たれた人たちに「まごころ宅急便」を
適用できないかということだった。仮設住宅
2週間泊まり込み、その後は2カ月間空家を借りて
県庁や社協、スーパーとの交渉を重ね、準備に奔走した。

お客様からの感想で一番多いのは「安心した」だそうだ。

それまで小気味の良いファシリテートをしていた事業部長が、
静かに、柔らかく口を開く。
「それで、事業は広がりを見せたんですか。
それはつまり、今回イノベーター公志園で受賞したことで。」

一番嬉しかったのは、と松本さんは言う。
『一番嬉しかったのは、社内から声が上がったことです。
各地のセールスドライバーが次々と、私も参加したい、
と名乗りを上げてくれました。』
現場も心を痛めていた。
田舎のセールスドライバーは、ほとんどが土着で、お客様とは
顔見知りであることが多いという。
『これは、受賞のせいではありません。』
一番身近で、一番愛される企業へ。ヤマト運輸の企業情報には、そう書いてある。

事業が広がりを見せている最中の市の名前をスラスラと語る流暢さ。
もう政治や慈善事業だけでは次の’高齢社会’の時代に対処することはできないという着実な意見。
それらを伝えるため、それだけのためにここに来たという事実。
思いが強い証拠だ。
熱心に考え抜いている証拠だ。
堅固な決意の表れだ。

孤独死をなくしたい。孤独死をなくしたい。孤独死をなくしたい。孤独死をなくしたい。孤独死をなくしたい。
百回も二百回もぶつけられるようだった。
静かに、しかし力強く、喉の奥に手を突っ込んででも
伝えようとしているような、そんなプレゼンテーションだった。

多くの人が涙を禁じ得なかった。
会場ではすすり泣きの音があちこちから聞こえてきた。
何を隠そう僕自身が、この発表の初めから最後まで、
ずっと泣き続けていた。

事業とはなんだったろうか?
なんのためにあるものだったろうか?
想いとは?
行動とは?
昨今企業の界隈を賑やかす体のいい釣り言葉
としてのそれとは異なる、全く素朴で純粋な問い。

自分は本当に、大切なものを失ってはいないか?
否が応にも虚業という疑念に苛まれることの多い時代、企業で、
誰もがそれらを浮き足立つことなく考える機会に恵まれたと思う。

一人の女性ドライバーの絶大な行動力に、心からの敬意を表したい。




不適切に長く、ドキュメンタリーかというほど大袈裟に書いてしまいました。
お付き合い頂いた方々、ありがとうございました。
そして末筆ながらここからは届かないであろう感謝の意を、松本まゆみさんへ。
本当に本当に心から素晴らしいと思える、ギュッと詰まった話をあの場で聞けたことが、
リクルート社員としても、一起業家としても、今後の宝になると思っています。本当にありがとうございました。

中学の同級生からmixiでメッセージがきた。

Iからmixiでメッセージがきた。中学の同級生だ。
思えばIとは確か、三年間ずっと同じクラスだった。
背はクラスで一番低くて体は丸っこく、明るくて素朴で繊細なところがあって、何よりいい奴だった。中学に入ったあたりで授業中、正負の計算で数学の先生にわいわい質問して、理解できなくて、『なんか思ってたのと違う』と、納得いかなげな顔をして落ち込んでいたのを覚えている。
一年もするとIは立派な不良になっていた。髪を金色にして、ワルさしてるグループとつるみ、段々学校には来なくなった。よくある話で、普通に学校にいればそんなにやさぐれているというわけでもなく、先生方とも気さくに話して、面白いことには興味を示す心を持っていて、僕はどちらかというとそんな彼と仲良くしていたので、帰りのHRで先生を無視して何人かで後ろの方で椅子を集めて漫画の話なんかしたのを覚えている。ぶっちゃけ優等生がそういうことをしているのは先生にとっては色々とすごく厄介だったようで、今では申し訳なくも思う。

中学3年生の、部活も引退して適当に遊んでいた頃、部活の同級生と一つ下の後輩を交えて、公園で花火をしていたところにIがたまたまもう一人陽気な友達(彼ももちろん不良の一味ではあった)を連れて現れた。ダイジェストで話をすると、彼は僕の部の友達によくわからない理由で詰め寄り、かぶっていたキャップを片手で弾き飛ばしたあとに逆の手で左目の近くをぶん殴った。横で見ていた僕には何がなんだかよくわからなかったし、予想外に躊躇いがなく、止める隙もなかった。なんというか、あぁこれが場数か、と思った。
もう一人の方はやめとけよと言いながら笑い、二人は去っていった。僕は続けて花火を楽しむよう全員に話し、殴られた友達を家まで送り届けた。友達は自転車はこげたものの片目が大きく腫れ、病院に行くのは必須で、とても落ち込んでいた。家に着いて事情を説明すると、友達のお母さんは慌てふためいていた。
公園に戻ると仲間は花火を終えて、後輩の女の子を中心にIの悪口を言っていた。僕はIにものすごく怒っていたし戸惑っていたけれど、彼らの悪口を心の中ではよく思っていなかった。少なくとも体型を揶揄することが当たり前のタイミングであるとは思わなかったし、Iは不当に貶められていると思った。
それはただそれだけの、エピソードでしかない。

彼はmixiで僕の存在に気付き、メッセージを送ってきて、何通かのやりとりをしている。
『覚えとる??』『返事遅れてごめん!』『鈴鹿におるよ〜!』『カキピーは?』『何の仕事しとんの?』『今流行りのIT企業ってヤツ!?』『カキピー凄ぇなぁ!』『俺なんか頭悪いから・・・』『東京は良い所?』『歌舞伎町は行ったことある?』『どんな所なん?』
あぁ、こんなヤツだったな。と思った。
はっきり言って僕はこういうヤツが大好きだ。僕は、素直なヤツと話がしたい。

ただ話していて一つだけ、気がかりがある。
「僕の言葉は彼に届くだろうか?」

東京にある色んな楽しいこと、疲れること、歌舞伎町の人々のこと、道端の汚さ、朝の風景。場合によっては大学や数学の話にだって少しは触れることになるかもしれない。彼には僕の言葉から何か想像できるだろうか?
長い文章は不適切か?どういう言葉を使えば、僕のしている仕事のことがわかる?もし対面だったら、逆に何も話せなくなる?でもこれが僕じゃなく、もっと真っ直ぐに語れる人間なら、伝えることができる?彼らなら、どうやって語る?

僕は少し不安になった。色んなことを選択してきたし、その分色んな大事なことを犠牲にしてきた。こう見えても僕はたくさん変わってきた。それでも大事なことはあって、執着は捨てながらも、何かは心に残していきたいと思っている。
遠くに住んでいて関係も無い僕に、無垢な好奇心を向けてくれる彼に何も伝えられなかったら、僕はやはり、本当に大事なことから乖離していることになりはしないだろうか?

思い悩むことも減った。わざわざシリアスに何かを言ったり書いたりする必要だって無くなって、考えることにばかり真剣でクソ面倒な人間だけれど、これでも少しだけ昔よりスマートになった。だから、こういうことを書くのはなんだかかっこ悪い気もしている。それでもやっぱり、こんな風に思う。

僕は色んなものを見てきて、みんなにばらまきたい。新しいことを知ってそこから人に何かを理解してもらう役目を果たせなかったら、偉そうに自分のフィールドに閉じこもって何かを知っている気にだけなったら、僕にはやっぱり存在価値なんて何もないと思う。

理解が進むことも、知的好奇心が満たされることも、僕は正義だと信じている。だから僕は、大いに語りたい。もっと言葉を磨きたいと思う。

そんな、ごく個人的な心情とか、生きる指標の話でした。長文にお付き合い頂いた方、ありがとうございます。少しずつだけど更新するので、また目を通していただけると幸いです。

しかしカキピーなんてあだ名、よく覚えてたなあいつ・・・w